六本木ヒルズで2006年邦画セレクションみたいな企画をやっていたので去年の夏からずっと見たいと思って結局見なかった「ゆれる」を見てきたよ。
★新井浩文MVP!
オダジョーの演技は渾身、渾身とイロイロなところで書かれているのでまあ期待通りという感じなんだけど、新井浩文、これキタ。「青い春」の最初のたどたどしい演技が妙に役にハマっていた新井、後半になるにつれメキメキと成長して、その成長振りに驚かされたものですが(ちなみに我らが山崎裕太は序盤でサックリ死亡)、コレ系の役やらせたらほんとハマるわ。半島系の顔のせいもあるのかなぁ。よう分からんが。
★西川美和って写真家じゃねーの!?
画面作りが写真家っぽくて写真家アガリの監督なのかと思ったら別にそういうわけじゃないのな。是枝裕和っぽいカメラワークながら、もうちょっとパッキリした絵作り。上手く表現できん。IT業界・サラリーマン生活のせいでこの辺のボキャブラリーがなくなってる自分。
キメのシーンの構図がいちいち一枚絵っぽく計算しつくされてるので、紙芝居でいいんじゃない?この映画。
(漫画っぽいつーかさ。なんかこう……「あっ、このシーンは見開きだ」みたいな(笑)BLEACHとかそんな感じだよね。普段のコマはそんなでもないんだけどキメのところはやたら構図に気合入ってる(笑))
この映画の例を挙げると、スタジオのオダジョーの電話シーンで画面左上にある机の位置とか、ファミレスの赤い風船の相対位置とかさ。
以下ネタバレのため追記に。


★脚本
緻密。それに尽きる。
私だったらこうする、と言う点を強いてあげるとすれば以下か。

  • 事の虚実はもう少し曖昧でよかった。デヴィッド・リンチ風ってわけじゃないが、どちらの回想がどちらの妄想なのかよくわからないくらいでも、テーマには影響ない。
  • つーか、明らかにすることで一見兄の聖人物語っぽくなってしまうので。ちゃんと読み込めはそうではないことは分かるのだが
  • 同様につり橋が象徴するものも、オダジョーの独白にあからさまに組込む必要はなかったのでは。まあ、やりすぎるとアート気取りの自己満映画になってしまうので難しいところではあるが

私なりの解釈を述べるとすれば、これはグレーゾーンからの風景を描いた映画である。
生まれも育ちも首都圏のミドル・アッパーで過ごした人間が語ってはいけないのかもしれないけど、私も自分では中高時代には相当強烈に垢抜けたものに対するコンプレックスを抱えて生きていたと思っているので、そこに置き換えて読んだと思っていただきたい。
オダジョーが兄のために奔走するのは、「殺人者の弟」になりたくないという自己保身などではない。
彼が守りたかったのは、「イノセンスの存在」という神話とそれに対する自己の優位だ。
そういう意味では、兄が有罪になるか、無罪になるかなど、直接的にはオダジョーの目的とは関係がない。
退屈な、垢抜けない故郷=オダジョーにとってのイノセンスだが、それを素直に憧憬することをオダジョーはよしとしない。このイノセンスが、真面目なだけがとりえで、親戚中に気を遣って回り、面倒な客に頭を下げ続け、母親の葬儀に喪服も着ずに遅刻してくる弟を叱ることもできない兄という形をとるときにのみ、言い換えれば、コレに対して絶対優位の位置を確保できるときにのみ、オダジョーはこれに歩み寄ることが出来る。
「兄ちゃんが呼んでくれて良かったよ」
と言う言葉は、チエコを組み敷き、黙々と洗濯物を畳み続ける兄がそれに気づいてもいないと思えたとき初めて、口にすることができるのだ。
一方では兄という名のイノセンスへのつり橋を落とすことができないくせに、他方では垢抜けない故郷と自分との関係を否定しようと逃げ続けるオダジョー。イノセンスはあくまで自分の下位にあるべきもので、それがチエコという皮を被って突然女面して追いかけてこられたときの恐怖たるや、想像に難くない。
そんなときに起きた事件はオダジョーを圧倒的優位の立場に立たせる。それは現場を見たからでも、兄の立場が相対的に悪くなったからでもない。「兄を庇う」という行為を続ける限り、オダジョーは故郷に対して圧倒的有利に立てる。俄然、チエコの葬式にはちゃんと喪服を着て、兄の世話を焼き、その日中に帰るといっていた滞在期間を延ばし、故郷の人々とフレンドリーになるオダジョー。
それがいつのまにか逆転する。兄はオダジョーとチエコの関係を知りながら隠しており、無罪になりそうな状況で裁判が終わった後の夢を語る。しまいにはスタンドの改装のためにオダジョーの知り合いのデザイナーを紹介しろだの言い出すときには、オダジョーの目には退屈で垢抜けない故郷を背負って追いかけてくるチエコの亡霊が兄の頭上に見えたことだろう。
一方兄は弟に奪われ続ける事によって弟への優位を確認する人間。
最終手段は弟の証言によって服役することだ。
結果的に兄は弟に対する優位を7年にわたり勝ち取り、オダジョーはチエコの亡霊をつり橋から落としたのみならず、つり橋自体を落とさざるを得ない。オダジョーはイノセンスへのつり橋を失い、グレーゾーンにとどまることは出来ず、ブラックゾーンに閉じ込められる。
……というのはオダジョーの勝手なヒロイズムである。
ということを指摘するのが新井。
(実はチエコと付き合っていたんですとか言うベタな展開じゃなくて良かった)
オダジョーの独白と矛盾するのでこれは監督の意図と異なるだろうが、8ミリを見てオダジョーが気づいたことは、ガキのころからオダジョーは常に奪い続ける、それがこの兄弟の形であったこと、また現在も将来も、奪い続ける事により否応なく否定すべき過去や故郷と繋がってしまい、逃れることは出来ないこと、ブラックゾーンにいても、兄を介してホワイトゾーンに片足突っ込んでしまっているというかたち、それが自分達なのだということ、それを最後のぎこちない笑顔で確認できたのでこの話は超ハッピーエンドだということ、と言う感じだと良い。

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4 Responses to “グレーゾーンからの風景 ~「ゆれる」西川美和・オダジョー~”

  1. diver Says:

    結局落ちたのか落としたのか分からないのでむかつく訳ですw

  2. psi Says:

    うむ。説明調にするならするで全部説明して欲しかったです。
    最近歳食って考えるのがめんどくさい。

  3. ゆうすけ Says:

    挙げられた3点については頷ける部分もある。ただ言いたいのは、この映画を観て感情の矛先が映画自体に向いてしまうことって凄く悲しいことだし、それは映画を観る姿勢として本末転倒なことだと思う。

  4. psi Says:

    コメントありがとうございます。
    すみません、余りに放置しすぎたためもうご覧になってないと思いますが一応。。。
    “感情の矛先が映画自体に向かう”という事が、具体的にイメージできていないのでご指摘の意味を履き違えていたら申し訳ないのですが、もし私が非常に気分の悪い映画を作ったとして、見た人がその映画に対して腹を立てたら、自分としてはガッツポーズですね。もちろん、「これは気分の悪い状況を表現しているのであるなあ」と思って映画自体には怒りを覚えなかったとしても、意図さえ伝わっていて、その人にとって何がしか感じるところがあればそれはそれで非常に喜ばしいことです。
    それとも仰りたいのは「私だったらこうする」というような見方ではなく、もっと自分の問題として捉えるべき、という話でしょうか?
    うん……それは確かにそうかもしれませんね。

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