狂気の桜

日曜日, 05. 28. 2006  –  Category: Review

確かこれ、窪塚月面タッチジャンプ事件と公開期間が微妙にカブって窪塚のデムパっぷりがクローズアップされた気がする。
気にはなっていたんだけど、まあ大体内容が読めるのとそのほかの用事が忙しくて結局劇場では見なかったんだけど随分前に民放でやってたのを録画してあったのをこの間思い出した。

凶気の桜 凶気の桜
窪塚洋介 高橋マリ子 RIKIYA

東映 2003-04-21
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宣伝では「ネオ東條」とかいう右に斜めった若者達が云々という昨今の右流行にスポットを当てた取り上げられ方をしていたんだけど、この映画のどこら辺に右があったのかよう分からんかった。
特攻服に日の丸が書いてあるのは古きよき不良時代からの伝統だし、アメリカ嫌いとか店で騒ぐなとか別に右とか左とかの問題じゃあるまい。マナー守れつったら中学高校時代のマナー教(※)のが厳しかったよ。
あんなので右だの思想だのいわれちゃ本マジで右な方々も堪ったもんじゃなかろう。まあ、本マジで右な方々のゴリッパな思想つーのがどんなだか私は知らないですけど。
原作はもうちょっとその辺書いてあるんだろうか。別に読む気はないですが。
まあ、多かれ少なかれ、思春期つーのは脳味噌の皺が余ってると思想とかやりたくなるし、あんまり知識のないうちはぱっと見ラディカルに見える国粋主義に傾倒しがちなもんだ。
特に男の子は軍隊とか好きだからな。
(ついでに言うともう少し周りが見えてからも思想ごっこが辞められない人たちがT大とかK大とかで現代思想ヲタへの道を歩みます)
だからまー、「ネオ東條」もそういう思春期の熱病的な意味で言えばまっとうというか、リアルだよな。
そういう意味で、この映画は青春映画としては普通に出来がいいと思うのだよ。
もうそのなに、渋谷を守るとかそういうことしか頭に無くなって、女をどう扱ったらいいのかもわかんないつーか、そんなこと(女とか)してていいのか俺みたいな混乱に陥ってるイタさそのものが青春であるのであるからして。
画面の構成とか色使いも頑張ってる感あるし。(本当に上手い人は頑張っているとバレないものですが、まあ、そこは置いておいて)
で、「そんなのは熱病なんだよ」「お前らイタ過ぎだろ」ということを言い続けているのが「消し屋」の江口。
序盤窪塚がイキがってる間は見てるほうも「そんなん思想じゃねーだろ」とか「よく言った、江口!」とか思ってるわけですが、これが思想映画ではなく、単純に青春映画であると気づき始めると、俄然、江口が「青春」そのものを跡形も無く消す「消し屋」として位置づけられている構図が見えてくる。
前述の通り、「熱病」に過ぎなかったり「イタ過ぎ」であるものがすなわち青春なのであるからして、これは熱病とはいってもおたふく風邪とか水疱瘡とかと同じで大概一度やっておくべきことなのだ。まあ、中にはやらない人もいるけど、それはその必要が無かったというだけの話で、「お前水疱瘡とかかかってんじゃねーよ」と非難される筋合いのものでもない。
この映画の筋は一言で言ってしまえば「コドモがオトナにしてやられる映画」ということになるわけですが、それ(コドモはオトナにしてやられる)が真理だとしても、コドモつーのはオトナに一矢報いたいわけです。もうそれこそ「僕らの七日間戦争」の昔からそう。10年も経てば何を守りたかったのか、何を取り返したかったのかなんて思い出せず、思い出してもなんでそんなことのために戦ったのか分からないようなあれやこれやのために。それは多分、赤ん坊が泣き喚いて存在を主張するのと同じく、自分が生きた証、コドモだって生きているのだという証明をするためだ。
だから江口が「熱病」自体を否定し、その痕跡すら跡形も無く消し去ろうすることは、コドモが「生きる」ことを否定する行為に等しい。それに対する、必死の抵抗が窪塚という形をとるのであれば、それを支持しようじゃないか。
※マナー教:同級生が作った宗教。公道は(道幅-1人分)列縦隊で歩くべし、ちんたら歩くのは禁止、優先席には着席禁止、その他のシートに座る際は膝と膝の間を1センチ以上空けてはならぬ(←幅をとるから)、御殿場の食事を残す際は教祖の許可が必要(ゆえに教祖は残し放題)などさまざまな鉄の掟がある。

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