マクロスコープ/ミクロスコープ
火曜日, 01. 25. 2005 – Category: Review
確か2年以上前の話になるが、長い間ガンを患っていた、弟の友達(以下K君)が亡くなった。
で、3日ほど前、K君の人生について書かれた彼の母上の本(実際にはライターの人が書いたのだが)が発売されたのだが、弟のことにも触れられているというので本屋に探しに行った。が、見つからないのでネットで検索したところどうもドラマ化もされるらしい。
どうもなんだか奇妙な気分になる。
私はなまじ物分りが良かったので、世の中の多くのことは実際に体験しなくても頭で理解できてしまった。そのためあるときまで世の中というものを言葉や理論だけで組み立てられるような、実際の手触りも質感も伴わないものとして把握していた。
しかし、それは何一つ分かっていることにはなっていないのだと気づいたときから、私はなにごとにもリアルさや手触りを求め、特にそれまで全く装置的にしか捉えていなかった、人の感情や意思が大きく動く出来事やモノを、もっと知りたいと追い求めるようになった。
本当にバカげたことだが、世の中に「感動」というものの本質などなく、あるのは「感動」をするとされているシチュエーションと、その仕組みに気づかない頭の悪さ、もしくはあえてその仕組みにハマることによって得られる非生産的な快楽主義だけなのだと、本気でそう思っていたのだ。しかし実際に人の心というのは動く物だし、その原動力となる出来事や物は、決まった「仕組み」を駆動する装置などではなく、それぞれ唯一無比のリアルな存在として確かに存在する。
そんな当たり前のことにずっと気づかずにいたのである。
K君の死をめぐる一連の出来事(出版、ドラマ化)は、傍から見ると世の中に腐るほど出回っている「装置的」感動の再生産と寸分違わぬ構造をしている。
けれども例えば弟にとってはK君の見舞いに行ったり葬式に出席したり、毎年ご両親を訪ねたりすることは、「学校行かなきゃ」とか「バイト行かなきゃ」とかと同じレベルで存在する現実問題であったし、そこにどんな感情の動きがあったかなどというのは、「装置」では決して一般化や再現することはできない、もっと個別の問題なのだろうと思う。
だから私は、K君の闘病中も、亡くなった後も、部外者として、なるべく感傷的な感情を持たないように心がけていた。部外者の自分が動揺したり、悲しんだりすることは、つまりは「装置的」なドラマの枠をその出来事へはめ込もうとする行為であり、ひどく失礼なことだと思ったからだ。
でも、今考えると、あの時確かに自分は動揺したし色々なことを考えたし感じた。そのうちのいくつかは確かに自己憐憫にすぎなかったり、問題をすり替える行為だったりしたと思うけれども、どんな類であれ、自分の心が動いたことに間違いはない。
それが誰かに対して失礼である/失礼でないに関わらず、そのこと自体は大切なことなのではないかと最近思ったりもする。
で、本来ならその本のアマゾンリンクでもぺたっと貼り付けるところなのだろうけれども、まだそこまで割り切れません(苦笑)
「装置的」感動の拡大再生産は、そのもの自体の本質を損なったりはしない。ただ伝える範囲が広くなる分、本質からかけ離れて希釈されていくというだけで。
それでも、その「装置」への加担を拒否するというのはつまりは直接の面識もないくせに身内意識があるということなので、自分でもバカだなと思いますが、リンクは張りません。
#でもドラマ化されたときに弟の役(あるのか?)をだれか超カッチョいい芸能人がやったりしたらどうしようとかそういうアホなことも考えたりします(笑) それこそ全然関係ない。
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