psiが通っていた小学校は大変面白かった。「楽しかった」ではないことに留意の上、昔話にお付き合いいただければと思う。
(なお、当時のあのあたりの地理・歴史に詳しい方にはpsiの実家の場所や登場人物が特定可能と思われますが気づかない振りをしてください)
小学校の話をする前に、当時psiが住んでいた町の話をしなければならない。その町は東急の都市開発事業の一部として、伸長した鉄道の新駅の周りに造られた新しい町だった。東急のデベロッパーはもちろん、西武系のデベロッパーなどが大型の集合住宅を建設し、psiの家族もそれらのひとつに早稲田から移り住んできた。
ここを以後A地区と呼ぶ。
A地区は東急が宅地開発するまでは地主が私有する山林や農地だった。
つまり、A地区に住んでいるのは、数世帯の地主一族以外、基本的に外から移り住んできた中産階級の若い世帯だった。
ここで、ようやく小学校の話に戻る。psiの通っていた小学校は新設(psiの入学時創立三年目だった)で、周囲のいくつかの小学校の学区とそこに住む児童を寄せ集めた学校だった。
元B小学校の学区だったB地区、元C小学校の学区だったC地区、元D小学校の学区だったD地区、これに山を切り開いて新たに出来たA地区を合わせた4地区で学区が構成されていた。
B地区は、なぜかpsiの記憶の中ではいつも薄曇っている。
東急が鉄道を引っ張る前から付近には国道が通っていて、この国道沿いに暮らす人びとがいた。単に国道沿いだからというだけでなく、この国道は江戸時代の街道に対応するため、そういう意味でも昔から人が住んでいた地域ということができる。これがB地区なのだが、四六時中騒音と排気ガスを撒き散らしてトラックが行き来する国道のイメージからか、明るいイメージがない。
A地区の地主ほど大きくない地主が土地を持ってたので、早期に土地を切り売りしたのではないかと推測されるC地区は、国道からはやや離れるものの、いくつかの社宅や公団などの大型の集合住宅を擁しており、小学校の再編にあたって人数的にもコアになった地区だ。教諭も、C小学校から転任してきた者が多かったという。
D地区は、古くからの住宅地だ。街道の宿場町としてなのか、小田急からのバス路線に基いてなのか、よく分からないが、東急の路線が伸びるずっとまえから住宅地で、商店や商業施設は乏しく、このあたりの子どもが通う予定の中学校があり、病院があり、後は全部一戸建ての住宅で、多くの世帯は祖父母と同居していた。このため、住宅地としての歴史や規模はC地区を上回っていたのではないかと思うが、psiの小学校の学区へと切り出されて編入された地区はそれほど大きくなかった。
ここへA地区が混ざっていく。吐き気がするほど面白い構図である。
psiのマンションに住んでいたのは大半が商社マンか銀行・証券系のサラリーマンだった。
商社マンは海外赴任があるし、銀行は地元との癒着を防ぐため定期的に転勤する決まりがあるとかで、皆出たり入ったりを繰り返した。
彼らにとってあのマンションは「すぐ引っ越さないといけないかもしれないから、ちゃんとした家を買っても仕方ないし、転勤の間他人に貸せるように駅に近くて取り回しの良い手頃な物件を買っておいて、子どもが大きくなったらちゃんとした広い家を買いましょう」というポジションだったのだ。
psiの両親も別に「夢のマイホーム」などという幻想を抱いてはいなかっただろうが、とはいえ家を買い替えるつもりも、経済力もなかっただろうから、そのあたりは如実に収入の違いがあった。
マンションの敷地内にある公園が小学校に上がるまでの子どもの社交場になるので、基本的にpsiの交友関係はそうしたブラジル帰りのなんとか君とかエジプト帰りのなんとかちゃんとか(メイドがいない生活に慣れていない)、せっかく仲良くなっても札幌だの旭川だのに転勤していってしまう子たちとか、そんなのばかりだった。
だが、都市開発の最先端の駅近大型マンションを、やっとの思いをして買うところまですら行かない人達もいる。
鉄道の駅からバスに何十分も揺られてたどり着くマイホーム、そういう選択をせざるを得なかった人たちは主にC地区、一部がB地区に住んでいる。
なぜなら、A地区に鉄道の駅が出来るまで、B地区やC地区が「鉄道の駅からバスに何十分も揺られてたどり着く」場所だったからだ。
ただ、収入の差こそあれ、前述の家庭は全て、スーツを着て働くたぐいのサラリーマンであることにはかわりはない。
B地区はそうではない人も沢山いた。
もともと、国道沿いに住んでいるということは、国道沿いであるがゆえの経済活動を当てにして住んでいるということで、それはいわゆるオフィス街でデスクワークをするタイプの仕事ではない。
A地区にはないようなスナックやパブがあり、オートバックス的な店やガソリンスタンドがあり、○○荘と名の付いているタイプのボロボロの木造トタン屋根のアパートに家族四人平気で住んでいる。おそらくラブホもあったのだと思うが、小さい頃そんなことを意識して見ていないので、わからない。
この地区に住んでいる同級生で、Y君というのがいた。
母子家庭で、母親は昼はパート夜は水商売で家に寄り付かず、Y君は毎日50円を与えられて放って置かれていた。
小学生男子が自主的に風呂に入るわけがなく、全身垢で真っ黒になっており、だいたいの日は鼻が痛くなるレベルの異臭を放っていた。
Y君は毎日与えられる50円を貯めるという発想がないらしく、ビックリマンチョコや駄菓子を惜しみなく買った。
その羽振りの良さを誇示して同級生に声を掛けてくることもよくあって、一日に50円というのは月に200円とかの小遣いの小学生には魅力的に見えたし、母子家庭の子どもを仲間外れにしているみたいな形になるのも嫌だなぁという思いもあって、偶に臭いがマシな日には一緒に遊んだりもしていた。
しかし、構って欲しさからなのか、親の倫理教育がまずかったのか、手癖も悪く、Y君に関わると何かしらなくなるという事件がつづいて、終いにはモノがなくなっても誰も探さなくなった。それに、頭をかきむしって頭垢を撒き散らしたり鼻水を腕で拭って教室の机になすりつけたりするのも皆から嫌がられており、最終的にはいないものと見なされていた。
今の基準で言えば、確実に親の養育放棄であり、さらにそれに対してあまりに学校が無策過ぎる。何らかの公的機関の介入があって然るべきではないかと思うのだが、もしかすると当時すでにそのような対策がなされていてなお、あの状況だったのかもしれない。
psiはどういう話の流れだったのか、一度だけY君の家に行ったことがある。
国道沿いといっても限度があるだろうというレベルの、本当に国道に面したアパートで、碌な騒音対策もなく、ダイレクトに薄い壁に車の振動と騒音が響いてきた。部屋が狭くてボロいのは勿論だが、ぐしゃぐしゃのノートと一緒に盗品が詰めこまれたY君の机の中とそっくりの、ゴミ袋だらけで洗ってあるのかないのかよく分からない服が床やら机やらに散乱していて、どう考えてもまともな人間が住む場所とは思えず、見てはいけないものを見てしまったという思いでそこを後にした。
psiは、どこか、一日50円もY君に渡せるのだから、Y君の家はそこまで貧乏ではないのではないか、不潔さや盗癖はあくまでY君個人の問題であって、母親や家庭としてはもうちょっとこう……みたいな期待? を持っていたと思う。
当時おぼっちゃまくんが流行っていて、貧乏っちゃまのボロい家とか出てきたけど、貧乏っちゃまはボロいだけで、刺激臭がしたりしないし、垢で黒くなったり鼻水を机になすりつけたりしないし、しょうもないものを片っ端から盗んで机の中に溜め込んだりしない。
Y君はちょっとリアル過ぎたと思う。
(続く)